野村徳七とは野村財閥の創始者で、野村証券を築いた人物として有名です。彼は大阪の両替商であった父の名前を引き継いで野村徳七を名乗ります。因みに野村商店は現在では「岩井コスモ証券」として運営されています。
徳七は、野村商店で新店舗を構えた後は証券業務の近代化を目指し、人材の育成と調査に励み「調査の野村」の礎を気付きあげます。
徳七は、野村商店から発行された大阪野村商報で「自己の利益より顧客の利益を先にす」と言っているほど顧客第一主義の経営を行っていました。
熱狂相場の中で売りに転じて野村商店の地盤を強大化
日露戦争が日本の勝利に終わり、講和条約の中身に失望した相場は、低金利と金融緩和で活況を取り戻し、新高値を更新し過熱感が出てきました。
野村徳七は、この相場を異常と感じて、買いから売りに転じます。大阪野村商報に「相場は狂せり」と意見広告まで出しますが、相場の活況の前に徳七は資金繰りに窮します。
そんな中、当時の鴻池銀行から100万円の融資を引き出して経営危機を脱します。相場は徳七の予想通り崩れて、この時の稼ぎで野村商店の地盤を強大なものにします。
欧米外遊で欧米の経営方針を学び、野村銀行を創立しその後の野村証券を誕生させます
朝日新聞社の企画で欧米に外遊した野村徳七は、欧米の金融機関の最先端の業務システムに感嘆して、後の野村銀行に取り入れていきます。
野村銀行を創立後、銀行として証券業務と信託業務に力を入れて、今の信託銀行の基礎になります。
証券部を独立させて野村証券を発足し、野村証券の更なる拡大を目指しますが、闘病むなしく敗戦の7ヶ月前に死去しました。