「1985年の9月22日」当時のG5蔵相・中央銀行総裁会議で合意された内容が、当時の開催ホテルの名前をとってプラザ合意と呼ばれるものです。
この合意内容は、ドル安を容認する合意であることは参加者全てが認めるものとなりました。
しかし、声明文には明確にそうした内容は記載されず、主要な非ドル通貨の対ドル相場に、ある程度のより秩序ある上昇が望ましいといった表現に留まり、歯切れの悪いものとなっています。
プラザ合意をきっかけにして3年後には100円の下落!
この合意後、ドル円でいえば242円台だった相場は翌週には220円台、2か月後の11月末には200円台へと急落し、協調介入の威力を見せ付けることとなります。結果として、合意後6週間でドル売り介入額は合計102億ドルに上り急激なドル安が進むこととなったのです。
米国のレーガン大統領は、強い米ドル、強いアメリカを目指し軍事費も拡大させました。しかし、結果として、財政赤字は膨大に拡大しドル高が金利を、引き下げにくい要因となっていったのです。
ドルを妥当なレベルまで下げ、金融緩和を進めざるを得ない状況にまで追い込まれていたのが、プラザ合意の背景にあると言われています。
日本にとっては対ドルでの円高の始まりがこの合意であり、三年後の1988年にはドル円は120円台にまで円高が進むこととなります。現状の為替相場をみればたいしたレートではありませんが、とにかく3年間でほぼドル円が半額になってしまったきっかけとなったのがプラザ合意なのです。