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麻生太郎氏は安倍内閣で財務大臣を務める存在ですので、FXをやっている方であればお馴染みの人物ではないでしょうか。2008年9月から翌2009年の7月まで内閣総理大臣を務め、自民党を野党に転落させた張本人でもあります。
総理大臣経験者が副総裁とはいえ財務大臣を後に努めるのは異例でもありますが、安倍内閣を支える重要人物と言っても過言ではない存在です。
これまで自民党内では、経済企画庁長官、経済財政担当大臣、税制調査会長、総務大臣、外務大臣を歴任しており、自称経済と外交のエキスパートとなっていますが、財政出動を中心とする経済政策には詳しいとされるものの、経済を立て直した実績があるわけではなく、どこまで精通しているのかはよく判らない部分も多い人物です。
麻生太郎は、吉田茂の孫で生粋の政治家の家系
国内の主要な政治家はいまや殆どが二代目、三代目で世襲のような仕事になっている感がありますが、麻生太郎氏もそのひとりで、かの吉田茂の孫にあたる存在であり、子供のころから政治かなり意識して生きてきた人物ともいえます。
大学卒業後浅生家の家業のビジネスに従事し、1973年には麻生セメントの社長に就任し、モントリオールオリンピックのクレー射撃日本代表にも選出されるというなかなか異色の存在ともいえます。1979年に衆議院議員選挙に立候補し初当選して今日に至っています。
世界の財務相の中でも麻生太郎氏は独特の存在感を発揮
麻生さんご本人は身長175cmとしていますが、安倍総理も175cmであり、並んだ写真を見ますと明らかに小さいことがわかります。
引用:テレビ朝日
小柄な体格にもかかわらず、黒ずくめのスーツにハットをかぶってマフィアのようないでたちで財務相会談に登場する麻生太郎氏のファンは一定数いるようで、海外での知名度も比較的高いようです。
FXの世界においても「為替介入」について足元では麻生太郎氏の発言がよく取り上げられます。麻生太郎氏の発言がヘッドラインにニュースに流れることにより、口先介入の効果を発揮させられる存在となっているのです。
したがってドル円の下落時に麻生発言が出た場合には十分に注意が必要となります。日銀の政策に関しては、お任せするといった発言が多く、金融政策自体については深い知見があるのかどうかよくわからないことも多く、こと為替相場に関する限り役人が作った原稿を読んでいるケースも多いようです。
また米国のルー財務長官とはかなり意見の異なる部分も多いようですが、日本政府として米国との会議の席上で議論されたとされる内容と米国サイドが発表する内容が大きくずれることも多く、日米の金融当局がかならずしもかみ合っていないところも露見させる発言が見え隠れするようになっています。
今の内閣のなかでは麻生太郎氏は、少なくとも安倍総理よりは経済に詳しい存在であり、当面財務大臣を継続して担当することになりそうです。
麻生太郎の家系図を作ってみた
さて、ここからは麻生太郎氏の家系図についてみていきたいと思います。麻生家の家系図を調査して、作っている最中に感じたことは・・「華麗なる一族過ぎる」ということです。皇室との繋がりはもちろんのこと、歴代の総理大臣・大物政治家がすぐに目に入ります。
この家系図を見ると麻生太郎氏に政治家の血が脈々と流れているのがわかります。(クリックで拡大)
麻生家の家系図:ストーリー
ここからは、麻生太郎氏につながる麻生家のストーリです。麻生家は1857年に生まれた「麻生太吉」から始まります。福岡県で庄屋(村長)であった太吉の父が1868年に“麻生”の苗字名乗りを許され、九州平定を果たした宇都宮市の支流である麻生一族の末裔となりました。
当時はまだ庶民が正式に苗字を持つことはできませんでした。とはいえ生活する上で私的に苗字らしきものは使っていたようです。国民すべてが正式に苗字を持つようになったのは1875年(明治8年)に「平民苗字必称義務令」が発せられてからです。
11歳で麻生を名乗るようになった太吉は15歳の時に目尾御用山を採掘して炭鉱開発事業を興しました。
その後次々と開坑して事業を拡大し「九州の炭坑王」と呼ばれるようになります。
1898年41歳のとき衆議院議員総選挙に出馬して当選します。1933年にはセメント製造業にも参入しますが、その年76歳で亡くなりました。正式には四男四女をのこしました。
「太郎」は1887年に太吉の三男として生まれました。現財務大臣の「麻生太郎」と同名です。
太郎は32歳の若さで亡くなりましたが、「子爵 加納久宜」の六女夏子と結婚して二男二女をもうけました。ここから麻生家の閨閥(けいばつ)が始まり、華麗なる家系図が出来上がっていきます。
【子爵(ししゃく)って何?】
君主制国家での称号。「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」と5つの称号のなかの4位にあたるのが「子爵」
政界・経済界で活躍した麻生太郎の父、麻生太賀吉
「麻生 太賀吉」は1911年に太郎の長男として生まれました。祖父の太吉が亡くなる2年前の1931年に麻生商店に入社し1934年に太吉の後を継いで社長に就任しました。
吉田茂のブレーンとして活躍していた白洲次郎の紹介で吉田茂の三女和子と知り合い結婚したそうですが、母夏子の兄つまり叔父の「加納久朗」が吉田茂と親交がありましたから、吉田茂とは親の代からの縁でした。
結婚後、首相となった「岳父 吉田茂」を補佐するため、1949年衆議院議員総選挙に福岡県から立候補し当選します。吉田茂の側近として、政治資金を捻出し、政界と財界の連絡役を務めました。後に首相となる田中角栄が太賀吉に接近してきて、共に吉田内閣のために奔走しました。
1950年に吉田内閣が総辞職すると、政界を引退して実業界に戻り、1951年に九州電力会長、1965年に日本石炭協会会長に就任しました。三男三女をもうけ、長男の太郎が衆議院議員選挙に当選して政界入りした翌年1980年に69歳で亡くなりました。
麻生太郎の誕生
現財務大臣の「麻生太郎」は1940年に福岡で生まれました。小学生の頃上京して学習院に入学し、学習院大学政経学部で政治学士を取得し、スタンフォード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学します。
1966年に帰国して実家の朝生産業に入社し、西アフリカでダイヤモンド採掘業にも従事しました。
1973年には麻生セメントの社長になり、1962年の原油の輸入自由化によって衰退していた炭鉱業からセメント業への転換を成功させました。
1979年の衆議院議員総選挙に福岡から出馬して定員5名中4位で初当選して政界へ入りました。
1996年に橋本内閣の経済企画庁長官に就任して初入閣します。2001年には自民党総裁選に出馬して、小泉純一郎、橋本龍太郎と戦って3位、その後発足した小泉政権で党政務調査会長を務め、2003年に総務大臣として入閣して、郵政民営化を進めました。
2006年に再び自民党総裁選に出馬するも安倍晋三に敗れ、外務大臣として入閣、2007年に自民党総裁選に出馬した際は福田康夫に敗れ、2008年4度目の自民党総裁選でついに自民党総裁となり9月に第92代内閣総理大臣に就任しました。
しかし、一年後の2009年8月の衆議院議員総選挙で自民党が民主党に惨敗して第1党の地位を失い、9月に麻生内閣が総辞職しました。
3年後の2012年の衆議院議員総選挙で自民党が政権を奪還し、第2次安倍内閣が成立すると副総理兼財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)として入閣し、今日に至ります。
旧華族や皇室との結びつきが濃い家系
麻生太郎は1983年に元首相鈴木善幸の三女千賀子と結婚し、一男一女をもうけました。弟の泰の妻和子の祖母は、「伯爵 牧野伸顕」の二女利武子であり、利武子の姉雪子は吉田茂の妻です。
妹の雪子は、「子爵 相馬恵胤」の息子で相馬家当主の相馬和胤と結婚しました。末の妹の信子は、寬仁親王妃となり彬子女王と瑶子女王をもうけました。
つまり、麻生家は旧華族や皇室との結びつきが非常に濃い家系になるのです。
いかがででしたでしょうか。FXの相場は麻生さんの発言でよく突発的な値動きをするわけですが、改めて麻生家の家系図を調べてみると、生まれながらに影響力の”血”が流れているんだなと感じ、なんとなく奔放な発言に納得してしまいました。(笑)
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