2015年9月27日。とある国の地方選挙ながら、世界的に注目を集めた選挙が行われました。ある人は各地への政治的波及を懸念して。またある人は世界を代表する強豪チームの行く末を案じて。
様々な思惑渦巻いた「スペイン・カタルーニャ地方」の選挙は、独立賛成派が過半数を占めましたが、この結果が意味するものとは。
カタルーニャ苦難の歴史をおさらいしつつ、今後の展開について考えます。
カタルーニャってどんな地域?
カタルーニャ州はスペイン北東部に位置するスペインの自治州で、州都はバルセロナです。2014-2015年シーズンのサッカー欧州チャンピオンにも輝いた強豪クラブ、FCバルセロナが有名ですね。
スペイン随一の観光都市としても名高いバルセロナですが、バルセロナ、カタルーニャと、スペインの間にはそんな華やかなイメージとはかけ離れた、厳しい歴史が存在するのです。
元々独立国家だったカタルーニャ
カタルーニャはもともと、スペインとは独立した国家でした。その成立は10世紀にまでさかのぼり、11世紀初頭にはすでに議員制度や法体系が整備されていたとされます。現代にも繋がるカタルーニャの自治意識はこのころから育まれていたのでしょうか。
後にアラゴンと「アラゴン連合王国」を結成して勢力を拡大し、現スペインのバレンシア王国などに領土を拡大する一方、シチリア王国、ナポリ王国などもその手中に収め、地中海一帯を支配するほどの繁栄を誇りました。
その後1469年、アラゴン王子フェルナンドとカスティリア王女イザベルが結婚し両国は統合、現在のスペインの原型とも言える「スペイン王国」が誕生します。
スペインはその後各地に植民地を拡大し、「沈まない帝国」と呼ばれるほどの繁栄を誇りました。
一見順調に統合が進んだように見えるカタルーニャとカスティリアでしたが、カタルーニャはこの間も独自の自治制度を維持していました。
その後スペインとフランスが争った「三十年戦争」における、カタルーニャ領内におけるカスティリア勢力の横暴にしびれを切らしたカタルーニャが、カスティリア軍の駐屯地を攻撃します。
この出来事が発端となった戦いはカタルーニャ全土を巻き込むほどとなり、「収穫人戦争」としてその名を残します。フランスの介入により混沌を極めたこの争いの最後はカスティリアがバルセロナを陥落し、元のスペインに戻るのですが、この出来事はカスティリアとカタルーニャの不仲を決定的なものにしました。
【Wikipediaから引用】 三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画「 戦争の惨禍」
カタルーニャが死んだ日
なんだかんだありながらも形を保ってきたスペイン王国ではありますが、18世紀初めのスペイン継承戦争(スペイン王位の継承者をめぐる、ヨーロッパ中を巻き込んだ戦い)において、フェリペ5世の王位継承に異を唱えたカタルーニャは、バレンシアなどとともにカール大公について戦います。
フェリペ5世らマドリード勢力(ボルボン朝スペイン)によるバルセロナ包囲をカール大公指揮のもと打ち破ってきましたが、そのカール大公が神聖ローマ帝国皇帝として即位(カール6世)してスペインを離れると戦況は悪化。取り残された形となったカタルーニャは、奮戦むなしく敗北します。
バルセロナが陥落した1714年9月11日は「カタルーニャが死んだ日」とされ、その後スペインによって自治権は取り上げられ、スペインの構成州の一つに格下げ。カスティリア語の強制やカスティリア資本の流入により、カタルーニャのスペイン化が急速に進むことになりました。
ちなみに、FCバルセロナの本拠地、カンプ・ノウにおいて行われる試合では、前後半17分14秒になるとカタルーニャ独立コールが響き渡ります。カタルーニャの人々にとってそれほどまでに重たい出来事であったということなのです。
独裁者フランコ登場
その後ヨーロッパで起きた産業革命によって、スペインの中でもいち早くその波に乗ったカタルーニャ地方は、屈辱を跳ね返すかのように発展を遂げます。
それとともに、スペイン人ではなくカタルーニャ人としての誇りを取り戻そうという動きが広がり、カタルーニャ語、カタルーニャ文化の復興運動が勢いを増します。
その後1931年、ボルボン朝スペインの崩壊に伴ってできた共和国体制のスペインでは、バスク、ガリシアともにカタルーニャにも独自の言語や文化を容認するなど広範な自治権が付与されます。
しかし、そんな喜びもつかの間。1936年のスペイン内戦において、ファシズム陣営であるドイツ、イタリアの支援を受けたフランシスコ・フランコが勝利を収めると、再びカスティリア中心主義へと回帰。公の場でのカタルーニャ語などの使用は厳しく制限され、カタルーニャは再び苦難の道をたどることになります。
1975年にフランコの死によって独裁体制の終焉を迎えたスペインは、1978年に新たな憲法を制定。
そのもとで作られたカタルーニャ自治憲章において、カタルーニャ語はカタルーニャ自治州における公用語としての地位をカスティリア語とともに得たのです。
収まらないカタルーニャ独立論
こうして丸く収まったかのように思えるカタルーニャとスペインの対立構造ですが、その火種はくすぶり続けることになります。2006年の住民投票により自治権を拡大したカタルーニャでは独立論が消えることはありませんでした。
2009年にギリシャの粉飾決済発覚に端を発した「
欧州債務危機」ではスペインも苦境に陥り、その中で
「経済的に豊かなカタルーニャの富を、スペイン国家の赤字補てんに利用している」との不満が高まりました。
2012年のカタルーニャ州議会選挙において独立派が多数を占めると、2014年にはスペインからの独立を問う住民投票を実施。賛成多数となりますが、憲法裁判所においてこの住民投票は無効とされます。ここで冒頭に戻り2015年9月27日。
カタルーニャ州議会選挙において再び独立派が過半数を占める結果となり、カタルーニャ独立問題が再度注目されることになったのです。
州議会選挙の結果が意味するもの
さて前置きがずいぶん長くなりましたが、カタルーニャ独立の動きを理解するにはその歴史を知っておくことが欠かせませんのでご容赦を。
それでは、先般行われた州議会選挙についてもう少し分析してみましょう。
カタルーニャ独立派が過半数を占めたというのは先程述べたとおりですが、投票総数ベースで見た時に事情はそう単純ではありません。
実は独立賛成派が得た票は全体の47.8%にとどまり、独立反対派が得た票を下回ったのです。
選挙制度の仕組み上独立賛成派が勝利しましたが、これが必ずしもカタルーニャ独立の住民投票で勝利できるということにはつながらないのです。また、問題はカタルーニャ独立運動のアイデンティティとも言える「FCバルセロナ」にも及びます。
仮にカタルーニャ独立が成し遂げられた場合、FCバルセロナや同じくバルセロナに本拠を構えるエスパニョールは「外国のクラブ」となり、スペインの国内リーグに参加することは認められません。
歴史的な対立も相まって世界中から注目される「レアルマドリード対FCバルセロナ」のクラシコ(伝統の一戦)は、少なくとも毎年のようには見ることができないかもしれないのです。
「サッカーよりも独立が大事だ」そのような声も聞こえてきますが、選挙結果を見ても分かる通り、以前ほどカタルーニャ独立の機運が高まっていないのが現実なのです。
独立運動は飛び火するか?
そう考えると、現時点においてカタルーニャ独立運動がヨーロッパ社会に与える影響は軽微だと言えます。もっとも、この問題は長きにわたってくすぶっている問題であり、スペイン中央政府の出方次第では再び火を噴く可能性もあるでしょう。
ヨーロッパにはカタルーニャのみならず、同じスペインのバスク地方、ベルギーのフランドル地方など、独立運動を抱える地域が多数存在します。これらの動向次第では同時多発的に独立運動が活発になる可能性もあり、そうなれば統一通貨ユーロに与える影響は小さくないでしょう。