山崎種二とは、昭和の相場師として、米相場で「売りの山種」と呼ばれるほど米の売りで稼ぎ、1939年に米穀商品取引所が廃止になる前後に株式相場に転身して、株式の売買で稼ぎます。
父の従兄の米問屋で働きながら、米相場で勝負する資金を作り、その時に稼いだ金で株式相場に手を出して失敗します。追加証拠金に追われ、盆暮れの賞与を前借しての生活だったと言われています。
その後は米問屋を独立して山崎種二商店を設立、米が豊作になったのを見て倉庫を借り占めて、米相場で利益を出すなど機転を利かせた判断で、稼いでいきます。
二・二六事件で一転して大儲けに
株式相場で売り方だった山崎種二は、活況な相場で破産寸前まで追い込まれますが、1936年二・二六事件が起こって、証券市場は閉鎖になり、開始後から相場は大暴落して山崎種二は助かります。その当時の金で500万円ほど稼いだと言われています。
その後は「買いの山種」と言われるほど買いに回って大儲けをします。1944年山崎証券を設立して証券業務に乗り出します。
絵画でも失敗をします
骨董屋から日本の有名画家の絵を買って大いに喜んでいたら、それは贋作でした。それ以来絵は難しいと海外の絵画は贋作を掴むリスクが有るとして日本画ばかりを買い、しかも贋作を避ける為に新しい絵ばかりを買っています。山崎種二は相場の神様と言われていますが、機を見て動くのが得意で、それが必ず成功していたわけではないです。
それでも堅実な部分が有って、確実に勝てるような勝負をして一財産を築き上げていったのは事実です。